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幕末の長州藩では高杉晋作の奇兵隊が有名ですが、このほかにも民兵から組織される多くの部隊がありました。
尊皇の念篤い、ときの大宮司は、社務所を志士たちに開放して山口における討幕活動の一大拠点とし、京から下向した三條實美を始めとする七卿らに援助を行うなど、尊攘派を陰から強く支えました。
志士らは日夜社務所大広間で活発な議論を交わすうち、集まる者は百名を超したため、この場所の名前をとって文久三年九月、「八幡隊」を結成しました。総督には当初、久坂玄瑞が推されましたが、自由な身の振りを求めて辞退し、代わりに堀真五郎を就かせました。
堀は小郡の出身で、松下村塾にも出入りするうちに高杉晋作とも交誼を結んでいたほか、「寺田屋事件」や「長井雅楽暗殺計画」、「英国公使館焼打ち事件」など幕末史の数々の局面に関わっています。松陰刑死後の遺体の改葬も高杉らと行ったほか、維新後も長生きして、明治23年には大審院の判事を最後に引退している。
さて、社務所での「八幡隊」は、前月生じた「八・一八の政変」で京を追われたことによる報復を主とした上洛案(翌年の「禁門の変」につながる)を積極的に説いており、集まる志士はこれに賛同する久坂をはじめ入江九一や寺島忠三郎、有吉熊次郎、小笠原蓑助、来島又兵衛など錚々たる俊英が集っていました。(高杉や桂などは時期尚早と反対)今でも彼らが連日潜った門や、風情ある内庭は当時の面影を残しています。
高杉の好んだ「菅原天神」に対し、久坂らは「八幡大菩薩」の旗のもと活躍しましたが、その多くは禁門の変で命を落としました。彼らが陽の目を見るのは、慶応二年に始まる「四境の役」(幕府方の呼称は「第二次長州征伐」)で、討幕につながる大きな戦果を挙げました。
現在、山口ではこの地が維新の胎動を育んだことを知る人は多くありませんが、華々しく散った志士たちもまた、今八幡宮に参り、来るべき討幕を祈ったことでしょう。なお、禁門の変などで命を落とした八幡隊隊員の御霊は、秋穂の朝日山護国神社に神として祀られており、奥津城(墓)もここにあります。
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