最近、実に多くの方より同様のことを繰り返し質問・提案していただきます。 「フェイスブック、していますか?」 「フェイスブック、されないのですか?」 「フェイスブック、されたら良いですよ!」 素晴らしい包囲網です。 フェイスブックの詳細は詳しくありませんが、要は「登録すれば、国内はおろか世界中の人と友達になれる」ことや、「何らかの繋がり(関係性)のある人と連絡がとれる」。ということで凡そ間違っていないでしょうか。 「フェイスブック」というものを行っている方は、恐らく世界中に何億人もいることでしょう。今という時代を反映しており、されている方はさぞかし便利で面白いことと思います。しかし、当宮(当方)はこれを行っておりませんし、今後も行う予定はありません。勿論、「ツイッター」というものも行っていません。あるのは只、年数回発行の紙媒体である「社報」と、「空白の11カ月」という修行を乗り越えた、当「新着情報」のみです。 不参加の理由は、「面倒だから」というようなことではありません。自身(又は当宮)の趣旨にそぐわない、又は風情を感じないという理由によるものです。 商店や会社ではない、「神社」という永い歴史ある威厳を考えたとき、簡単で、薄っぺらく無機質な「ネット上での繋がり」に疑問を感じます。取り敢えず、足を運んでもらい、顔を合わせる。それがまず第一です。 社報も、インターネット全盛の時代にはもしかすると不要なものかも知れません。ホームページだけあればそれで十分とも言えるかも知れません。しかし、それはパソコンを扱わない年配者に配慮していると言えるでしょうか。神社に足を運ばずして、サイトを閲覧するのみで良いのでしょうか。平安時代さながらの務めを担う神社には何かそぐわない気がします。 携帯電話が今ほど普及していなかった時代、家の電話を部屋に引き込んで友達と長話しした頃。寒いなか、電話ボックスで足踏みしながら話していた頃。時々お婆ちゃんに手紙を書いていた頃。これら全て、直接話す声や、自筆の文面から伺える相手の微妙な変化など、温かさを感じ取ることができる「人間味」ではないでしょうか。利便性の追求は社会にとって人間生活を飛躍的に進歩させてくれる科学です。しかし、各々役割と立場があります。いつの日か家に居ながら「ネット参拝」や「お守りの通販」ということになった場合、それは「便利で良いこと」なのでしょうか。 「時代遅れ」や「頑固者」と笑われるかも知れません。ただ、遠方より足を運んでくださる方。長い石段を頑張って上って来られるお年寄り。境内の「気」を受けに見える方。こうした方々を、単に「いいね」で済まされる希薄な世界ではありません。そして、宮司さんや地元の人と触れ合ってもらうことが(姿を見せることが近況を知らせることとなる)神社の役割です。 時代には追従せねばなりません。しかし、日本には日本の、神社には神社の、今八幡宮には今八幡宮なりの姿勢や信念があり、このホームページや「新着情報」だけでお許しください。
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