昨日もこの時期らしい寒い一日でした。 厄除けのお祓いにお見え下さった方より、「先日、節分のテレビ放送(TYS)見ましたよ。ここでは交差点に豆を置く風習があるのですね」。と仰って戴きました。各局ある放送局の、しかも番組内で僅か数分の内容にも関わらずご覧になっている方が多いことに感心しました。「良く知っている神社」「親しみを持つ神社」が採り上げられたことによって、より印象が強かったのかも知れません。 地元山口の方でも、今八幡宮下の交差点に豆を置く節分の風習を御存じない方が多いため、改めて概略を記します。 そもそも前提として、節分のお詣りは歩いて行きます。(初詣も同様)昔、車が無い時代であったためということではなく、氏神さまとは、山口においては必ず歩いて行くことができる距離にあります。
「節分の豆撒き」とは、男が行う行事です。家であれば家長(お父さん)、神社では宮司さんのほかは厄年の男性または年男がこれを行い女性は参加しません。それは、伝統的に日本の女性の良しとされる象徴「おしとやか」「雅やか」「清らか」「慎ましさ」「上品」といった理想像が、「鬼は外!!」と力強く、髪を振り乱して豆を投げ付ける姿がそぐわない為、男が代表して行います。しかし、女性も「心の鬼」を退治して、清々しい気持ちで新たな年(立春)を迎えたい。そこで、「豆(=魔目=厄)を置く」という風習になりました。女性だけではなく、勿論これを男が行っても構いません。また江戸期に始まった現在の豆撒き以前よりあった古い歴史ある習わしでもあります。 年の数(数え年であるため、満年齢プラス2歳)の豆を半紙(最近はティッシュが多いが可)に包み、参拝後に石段下の中央(十字路のところですが、車に注意して)にそっと置き(なるべく置くところを人に見られないようにします)そのまま家に着くまで道中後ろを振り返ってはいけません。これは、女の子の「十三詣り」でも同じですが、「振り返らない」という行為は「過去(昨年)の悪いことを引きずらない」「くよくよしない」「前向きに進む」という内面的意思の表現であり、「おしとやか」に振る舞うなかにも気丈で心(しん)の強い(しっかりした)伝統的大和撫子らしさが伺える美しい姿といえましょう。 ここで、「歩いてお詣りする」ということが重要となります。車であれば再び駐車場まで戻らなくてはなりません・・・。といいましても、実際は先人の教えとして、「有名というだけで遠方の有名大社に行くのではなく、地元の氏神さまに行きなさい」。という(地元の神社を大事にしなければいけません)といった教訓が込められています。 鬼の姿とは、牛(丑)の角を生やし、虎(寅)の褌(パンツ)を履いています。丑寅(艮・うしとら)は北東の方角であり、邪気が侵入する鬼門にあたります。この目に見えない「邪気」を人間のような姿として表したものが我々がイラストなどで目にする「鬼」の姿です。そして、山口の町の北東に位置し、大内氏館の鬼門封じとされたお宮が、この今八幡宮なのです。よって、「山口の節分は今八幡宮でなければ!」という地元住民が古くから多いのはこういった理由によるためなのです。
「鬼」とは、日本において始めから(文学でも民俗学でも)必ず「女性」となっています。(だから女性が怖いとは言いません!) こういったところにも、女性は豆撒きをしないという理由があり、よって、豆を「置く」という風習に繋がったと思われます。 幾百年も続く伝統風習とは、必ずしも迷信というわけではないと思われます。そうであれば既に廃れていることでしょう。今なお続き守られるということは、それなりの理由あってのことです。今年されなかった方はまた来年行ってみてください。
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