「座右の銘」を持つほど文学に通じていませんが、肝に銘じておくべき戒めのようにしている言葉(格言)がいくつかあります。 そのうちのひとつに、孔子の論語にある「過ちては改むるに憚ることなかれ」。があります。 過失は素直に認めて謝る。失敗は改善して工夫する。間違いに気づいたらすぐに直す。 現在でも充分に通じることです。いつか、論語の輪読会を起こしたいと思います。
いつからでしょうか、かつては「国産」と表示されていたものが、現在は「日本製」と表示されるようになりました。 「我が国では・・」と言うべきところ、「日本では・・」と言うようになっています。(外国人が言うのであれば間違いではない) 身近で言いかえると、普通は「我が家では・・」「ウチでは・・」と言います。決して「○○家では・・」というように、他人事のようには言いません。(他人事を「たにんごと」という誤用が多くありますが、「ひとごと」と読みます。) 学校の科目では、「国史」が「日本史」となって久しいのですが、「国文学」を「日本文学」、「国語」さえ「日本語」というようになっているようです。一体どこの国の科目なのでしょうか。 国際化やグローバルというあまり、自国のことまで国際基準としてしまい、知らず知らず、徐々に徐々に言葉や文化を蝕んでいきました。 一方で、「和牛」のことを「日本牛」と言わないのはなぜでしょうか。いや、そのうち言うようになるのかも知れません。
対外的(外国)に向けた、あるいは比較した場合でない限り、「日本」という語の乱用は避けるべきでしょう。「日本」と言わずとも「日本」であることは分かっています。 言葉には魂が宿り、これを「言霊(ことだま)」と言います。汚い言葉を使うと魂も汚くなってしまいます。 先日の流行語大賞の候補に「保育園落ちた、日本死ね」というものがあったようですが、「日本死ね」というこれを候補に挙げた審査員の常識を疑います。「神ってる」など、言葉の用法が間違っているものが平気で大賞となります。これだけを見ても、「流行語」などは使用しないほうが良いことが分かります。 シンガポールは第一公用語を英語にしてから文化が崩壊しました。(その反面、世界で活躍できるようにもなりました。) 「文化の砦」として、言葉を大事にしていきたいものです。
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